新潟県埋蔵文化財センター

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開館時間 9:00 ~ 17:00   休館日 12月29日~1月3日

平成19年度企画展示 「平成17年度 発掘調査 出土品展」1

平成19年度企画展示 「平成17年度 発掘調査 出土品展」(4~9月)

企画展示配置図

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1大角地遺跡
2上野東遺跡遺跡
3現明嶽遺跡
4土居下遺跡
5北沖東遺跡
6狐宮遺跡
7鴨深甲遺跡

大角地遺跡

大角地遺跡は、東を姫川、西を田海川に挟まれた海岸から500mほど内陸の台地上にあります。

発掘調査の結果、竪穴住居や土坑が見つかり、ここから多数の磨製石斧や玉類(勾玉・けつ状耳飾・管玉など)のほか、これらの製作に関わる道具が出土したことから、縄文時代早期末から前期前葉(今から約7,000年前)にかけて、蛇紋岩製磨製石斧や滑石製玉類を大量に生産していた集落であったことがわかりました。

大角地遺跡の縄文人は石材の特徴を理解した上で、磨製石斧には硬い蛇紋岩を、玉類には軟らかい滑石を、石斧をつくるハンマーには重くて硬いヒスイを選んでいたようです。これらの磨製石斧や玉類には未完成品や失敗品が多く、完成品は交易品として他地域へ運ばれたと考えられます。


滑石製装身具(けつ状耳飾)

蛇紋岩製磨製石斧

上野東遺跡遺跡

上野東遺跡は、津川盆地の西縁にあたる、阿賀野川左岸の段丘上にあります。沢を挟んで西側約500mの地点には、本遺跡と同時期である縄文時代前期の現明嶽遺跡が位置しています。

掘調査の結果、下層からは垂木状の柱を斜め内側に立て、中央で束ねた「テント式住居」や焚き火の跡と見られる焼土が見つかり、一時的に利用された縄文時代前期(今から約5,000年前)のキャンプ地であったことがわかりました。また、上層からはカマドを持つ竪穴住居や炭窯が見つかり、平安時代(9世紀後半~10世紀初頭)の小開発地であったことがわかりました。阿賀町周辺では平安時代の人々の活動を示す情報が少なく、上層の成果は地域の歴史を物語る貴重な発見となりました。


石器の数々

深鉢

現明嶽遺跡

現明嶽遺跡は、津川盆地の西縁にあたる、阿賀野川左岸の段丘上にあります。沢を挟んで東側約500mの地点には、本遺跡と同時期である縄文時代前期の上野東遺跡が位置しています。

発掘調査の結果、下層からは煮炊きに使われた土器が立ったまま、あるいは横倒しの状態で出土する、遺物集中出土地点や、焼けた礫、焼土などが見つかり、縄文時代前期(今から約5,000年前)の一時的なキャンプ地であったことが分かりました。また、上層では、竪穴住居が3軒見つかったほか、日常生活で使用した土器や石器、マツリで使用したと考えられる土偶なども出土しており、縄文時代後期(今から約3,500年前)に短期間営まれた小集落であったことがわかりました。


土偶(高さ15.5㎝)とスタンプ形土製品

深鉢

土居下遺跡

土居下遺跡は、海岸砂丘の内陸に広がる低地にあります。遺跡の東約1㎞の地点には、古墳時代前期の円墳「城の山古墳」があり、周辺には古墳時代前~中期にかけての遺跡が数多く分布しています。

発掘調査の結果、一辺が約3~4mほどの水田跡や、水口(取水口)、川を堰き止めて水位を上昇させ、周辺の水田に水を配る堰などが見つかり周辺からは木製農具の広鍬や横鍬、水田を歩く際に足が沈むのを防いだ大足(枠型田下駄)も出土しました。これらの資料は、古墳時代前期(今から約1,700年前)における阿賀野川以北の稲作農耕を物語る貴重な発見となりました。


大足(枠型田下駄 長さ81.0㎝)

広鍬(手前)と横鍬(奥)

北沖東遺跡

北沖東遺跡は、魚沼丘陵から流れる庄之又川と鎌倉沢川が形成した扇状地に挟まれた低地にあります。遺跡の周辺には、古墳時代中~後期にかけての群集墳や集落遺跡が数多く分布しています。

発掘調査の結果、古墳時代後期(今から約1,500年前)の川跡や、川跡に木を数本まとめて渡した木道(橋)、川跡に沿った杭列が見つかったほか、馬鍬や鍬身(または鋤身)の一部と見られる木製農具も出土しており、水田に関連する施設であったことがわかりました。本遺跡の調査から、この地域では扇状地端の低地に水田などの生産域が広がり、集落は丘陵末端に営まれたことがうかがえます。


木製農具(鋤身または鍬身)

馬鍬(手前)と弓

狐宮遺跡

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狐宮遺跡は、高田平野を流れる関川右岸東側の微高地上にあります。

発掘調査の結果、縄文時代草創期(今から約10,000年前)の尖頭器や、縄文時代後期(今から約4,000年前)・晩期(今から約3,000年前)の土器、古墳時代中期(5世紀)の落とし穴、平安時代(9世紀)の集落が見つかり、長期に渡り断続的に人々の生活の跡が残されていることがわかりました。

特に、平安時代の集落では、川に沿って掘立柱建物や井戸、畑跡のまとまりが3か所確認され、関川右岸の農業開発を担っていた集落の一つとして注目されます。また、縄文時代草創期の尖頭器の出土は、高田平野に人々が進出した時期を知る上で重要な発見となりました。


井戸枠

尖頭器

鴨深甲遺跡

鴨深甲遺跡は、五頭連峰を南に臨む、阿賀野川右岸の自然堤防上にあります。

発掘調査の結果、掘立柱建物や井戸、土坑、水田と見られる凹地遺構などが見つかり、能登半島の先端部で生産された珠洲焼を主体とする陶磁器が出土したことから、室町時代(今から約700~500年前)の集落であったことがわかりました。

本遺跡では、掘立柱多々ものを中心に井戸や土坑、凹地遺構があり、このような遺構のまとまりが3か所に散在しています。このことから、居住地と耕作地がセットで散在する、14~15世紀の「散村」のようすが明らかになりました。


大型曲物(井戸側)

小型曲物(柄杓)
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