新潟県埋蔵文化財センター

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開館時間 9:00 ~ 17:00   休館日 12月29日~1月3日

平成25年度企画展示「平成23年度報告書刊行遺跡 平成22年度発掘調査遺跡 出土品展」

平成25年度企画展示「平成23年度報告書刊行遺跡 平成22年度発掘調査遺跡 出土品展」

新潟県教育委員会が発掘調査した遺跡から、各遺跡を代表する遺物を選んで展示しています。この機会に、先人が残した貴重な遺物の数々をご覧いただき、新潟県の歴史と文化を肌で感じてみてください。

企画展示配置図

ご覧になりたい区画をクリックしてください
←入口
4~6川久保遺跡
3山崎遺跡
2上道下西遺跡
小坂居付遺跡
1下割遺跡
宮花町遺跡

川久保遺跡(かわくぼ いせき)

川久保遺跡は、信濃川支流の魚野川上流部左岸、標高約350mの段丘上にあります。発掘調査により、縄文時代中期前半から後期前半にかけての集落が見つかりました。遺構は、中期の竪穴住居及び住居の炉と考えられる石組、中期から後期の焼土・集石・土坑・埋甕などを発見しました。中央に複式炉をもつ敷石住居1基は、県内では検出例が少なく貴重です。遺物には、縄文土器・石器と少量の土製品・石製品・獣骨があります。

縄文土器は時期によって様相が異なります。中期前葉では中部高地系・関東系が主体を占めます。中葉では越後独自の火炎土器が最盛期を迎えるとともに、新たに東北系の土器が加わります。中葉後半になると、信州地方の唐草文系土器と関連のある綾杉文を多用する土器が目立ちます。後期は三十稲場式土器など越後独自の土器から、関東系の土器へと移り変わります。 このように各地域の影響を受けた土器が存在することは、当遺跡が地域の拠点集落であったことを物語ります。


縄文時代中期前葉の土器

縄文時代中期中葉の土器

縄文時代中期後葉の土器

縄文時代後期前葉の土器

縄文時代中期から後期の石器

山崎遺跡(やまざき いせき)

山崎遺跡は、柏崎平野の中央部、鯖石川左岸の標高約5m前後の水田地帯にあります。発掘調査により、蛇行した川跡の岸辺から掘立柱建物や土坑、井戸、溝、ピットなどが見つかり、須恵器や土師器、墨書土器、曲物、盤などが出土したことから、今から約1,150年前の平安時代(9世紀中葉~後半)の川岸に営まれた集落であったことが分かりました。集落の中心部は調査区の東側にあると予想しています。

川跡の一部には、須恵器や土師器などがまとまって捨てられている場所があり、日常的なゴミ捨て場であったと考えています。土師器や須恵器の椀の中には、「墨書土器」が十数点含まれています。「中山」と記されたものが多く、地名を示すものかもしれません。また、5枚の花弁と茎を一筆で描いたような「草花文」も1点出土しており、自然物を対象とした例が少ないことから、特に注目されます。

 
室町時代の転用砥石(上) 平安時代の須恵器(下)

上道下西遺跡(かみみちしたにし いせき)

上道下西遺跡は、信濃川右岸沖積地の標高約8mの自然堤防上にあります。調査区は自然堤防北東斜面に当たり、水田とその関連遺構が見つかりました。水田は2枚の層(上層・下層)で見つかり、時期は出土遺物や放射性炭素年代測定から上層が室町時代(14世紀後半、今から約650年前)、下層が平安時代(9世紀後半、今から約1,150年前)であることが分かりました。

室町時代と平安時代の水田は微高地平坦面に大きな水田が、低地に向かう斜面地には比較的小さな水田が造られ、特に平安時代の水田は地面を掘り込んだ「掘り込み田」というもので、検出例の少ないものです。用水は、調査区南側の最も高い位置にある数本の溝から取水したものと見られ、水田をつなぐ小溝で田伝いに水を流していたようです。水田のある微高地と低地を区切る溝は、水田の排水のほか、アシなどが水田に進出するのを防ぐ「根切り」の役割を果たしていたものと考えられます。

上道下西遺跡は、三条地域における当時の水田の造成・耕作技術を知る上で、貴重な事例と言えます。


室町時代の転用砥石(上) 平安時代の須恵器(下)

小坂居付遺跡(こさかいづけ いせき)

小坂居付遺跡は、越後平野を流れる信濃川の支流、中ノ口川右岸の沖積地にあります。発掘調査は平成21年度から始まり、現在も調査を継続しています。発掘調査により、掘立柱建物の周囲を溝で囲み、西側に24本の柳の木を植樹した屋敷地や、その周囲に広がる上下に重なった4枚の水田が見つかり、屋敷地からは珠洲焼や青磁、鉄鍋、漆器椀、下駄、木簡、茅針などの生活用品が多数出土したことから、今から約750~500年前の鎌倉時代末~室町時代(13世紀後半~14世紀)に営まれたものであることが分かりました。

特に注目されるのは、茅札(茅を刈る許可証)と種子札(米の品種を書いた札)です。茅札には「吉ゑのかや」と書かれており、中ノ口川の対岸、北西約1.2kmの地点の「吉江」という地名に関連すると考えています。また、種子札には「志ろわせ/さとう三郎」と書かれており、平安時代から昭和40年代まで栽培されていた米の品種「白わせ」を、屋敷地に住む「さとう三郎」が栽培していたと推測しています。

下割遺跡(しもわり いせき)

下割遺跡は、高田平野の中央を流れる関川の支流、飯田川左岸の標高約14.5mの自然堤防上にあります。発掘調査により、掘立柱建物、土坑、井戸、溝などが見つかり、珠洲焼、青磁、白磁、石臼などが出土したことから、今から約700年前の室町時代(14世紀)に営まれた集落の一部であることが分かりました。

特に注目されるのは、両側に2条の側溝を持つ道です。調査区を東西に横断しており、道幅は、側溝を含む幅が8.0~8.5m、路面幅が3.7~4.3m、側溝の深さが0.5~0.9mで、県内で見つかっている同時期の道と比較しても大規模なものです。慶長二(1597)年に作成された「越後国頸城郡絵図」には「米岡村」と周辺の集落をつなぐ道や、「真砂新町」から延びる「松之山街道」などが描かれています。下割遺跡で見つかった道が、これらとどのように関係するのか、大変興味深いところです。


中国からの輸入陶磁器(左) 珠洲焼(右)

宮花町遺跡(みやばなちょう いせき)

宮花町遺跡は、糸魚川市街地の西端、親不知海岸の入口に位置し、日本海と丘陵に挟まれた狭い海岸平坦地にあります。発掘調査により、埋葬人骨15体、石列1列が見つかり、人骨の放射性炭素年代測定の結果、今から約600年前の室町時代(15世紀前半)の埋葬地であることがわかりました。

人骨15体は、いずれも土坑墓内に埋葬された可能性が高く、多くは身体の一部を折り曲げた状態で見つかり、鉄釘が出土したものもあります。このことから、遺体は木棺や桶棺、または墓坑に直接、座葬もしくは側臥屈葬されたと考えています。人骨の一部には、顎の下から銭貨が6枚重なった状態で出土し、銭貨に紐や布の痕跡が認められることから、被葬者の首にかけたものと推測しています。

15世紀前半の埋蔵人骨の出土例は、北陸地方全域においてもそれほど多くなく、当時の糸魚川地域や北陸地方の海浜部の葬送儀礼を知る上で、重要な事例です。 


木棺の釘(左) 副葬品の銭貨(右)
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